大島紬

東大寺献物帳

大島紬の歴史

その起源は1800年以前にさかのぼり、 わが国において最も長い歴史と伝統をもつ織物です。 鹿児島では奈良以前から養蚕が行われ手紡糸で紬が生産され、その染色方法も 天智天皇(661年)の時代からの古代植物染色の技法であり、 現在車輪梅染(テーチ木)及び藍染として伝えられております。 

本場大島紬織物協同組合

「東大寺の献物帳に「南の島から褐色の紬が献上された」といった記述がある


webで検索していると
上のような記述を目にします。
これを手掛かりに、すこし調べてみることにしました。

東大寺献物帳

活字版は東大のサイトでみられます
原物は宮内庁のサイトでみられます

東大寺献物帳

東大寺献物帳

褐色紬は大島紬なの?

画像2枚目の「七條 褐色紬袈裟 一領」というのが「褐色の紬」であることは間違いありませんが、この資料をみる限り、「南国から」という記載が見当たらず、=大島紬、と考えてよいものなのか、疑問が残ります。

天平勝宝という時代

この資料に「天平勝宝八歳六月二十一日」とあるので
天平勝宝がどんな時代だったかを下記に引用します。
天平勝宝年間というのは、ちょうど奈良の大仏が建立された頃なんですね。
8歳というのは、聖武太上天皇の崩御の年ということのようです。

  • 天平勝宝2年、第十二次遣唐使、藤原清河を大使、吉備真備・大伴古麻呂を副使に任じる。
  • 天平勝宝3年、『懐風藻』が編纂される。
  • 天平勝宝4年、東大寺盧舎那仏像開眼供養会。再び佐渡国を建てる。
  • 天平勝宝6年、唐より鑑真が来日。
  • 天平勝宝8歳、聖武太上天皇崩御、遺品を東大寺に納める(正倉院の始まり)。
  • 天平勝宝9歳、橘奈良麻呂の乱。
    wikipediaより引用

当時の大島紬はもちろん現代の大島紬のように細かい絣は表現できないものですが、(細かい絣が表現できるようになったのは、締機の開発された明治40年以降)堅牢な泥染の紬は、奈良では珍しいものであったため、献上されたのかもしれません。

もうすこし踏み込んで調べたいところですが、これだけで数週間が終わってしまいそうなので、ここで一度保留ということにいたします。どなたか、ご存知でしたらご教授ください。

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